世代を超えたバリ芸能の交流 その1

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Gungkak Mandara Ni Made Sengog

「ムングナン・サン・グル~プリアタンの偉大な音楽家とレゴン舞踊の師への賛辞」
“MENGENANG SANG GURU – A Tribute to Anak Agung Gde Mandera and Gusti Made Sengog”

数年前、正確には2007年の8月26日。
バリ島ウブドのプリアタン村において、舞踊と音楽の師匠を賛辞するメモリアル写真展およびメモリアル公演の開会式が行われ、当時のギャニャール県知事「アナック・アグン・グデ・アグン・ブラタ氏(Anak Agung Gde Agung Bharata)」の手で公式にイベントの開幕が宣言された。

バリ芸能が高いレベルの芸術性を保ち続けることに配慮しながら、人材の育成と保護に尽力を注ぎ、初めて海外へ「バリ芸能」を紹介した際に、この海外公演を成功に導いて、現在のようにバリ島が「芸能の島」として国際的に認知されるキッカケを作った。その称賛に値する業績を収めたのが

アナック・アグン・グデ・マンデラ(Anak Agung Gde Mandera)
通称 グンカッ・マンデラ(Gungkak Mandera)

そして

グスティ・マデ・センゴッグ(Gusti Made Sengong)
通称 ビアン・センゴッ(Biang Sengog)

の両名である。

このイベント「ムングナン・サングル MENGENANG SANG GURU – A Tribute to Anak Agung Gde Mandera and Gusti Made Sengog」に名前が記されている両名は、現在もバリ島内でプリアタン・スタイルとして知られる独特の舞踊形式、中でも特にバリ舞踊の華と呼ばれるプリアタンの「レゴン舞踊」を弟子達に伝授し続けた。

この「恩師に捧げる公演」というアイディアが生まれるかなり前、2007年1月のこと、私(カデ・フェリー)はプリアタン村の一人の舞踊家から、ある会議の席に招待を受けた。 この時に私は、プリアタン・スタイルの今後の時代を担う世代「次世代」の楽団の代表としての招待である旨を事前に知らされたいた。
会議場となるバレルンに到着して、次々と現れる出席者の顔ぶれを拝見したとき、私は驚嘆した。
出席者は、プリアタン・スタイルを受け継ぐ芸術家ばかりで、全てグンカッ・マンデラとビアン・センゴッの弟子達であった。
また、バリ在住者だけではなく、海外から駆けつけた芸術家もいた。

全出席者が揃った時、それは、五世代(1950年代から1970年代の弟子達から現役まで)にも渡る幅広い年齢層によって構成されていたのである。

会議が進む中、特に私が興味を惹かれたのは、これら弟子達によって、会話の合間に挟まれる、思い出話の内容であった。

自分達が現役で活動していた頃の、楽しかったこと、そうでなかったこと。に始まり
師匠の踊りのレッスンが、どういう風に行われていたか。とか
自分達の世代では、踊りの振りが違った。とか
踊り以外の日常生活のマナーまで教えられのだよ。とか

そういう、懐かしい思い出を先輩弟子が次々に語ってくれるのだ。

初めて海外へバリ芸能公演を持参した時の話に至っては、
当時は、楽団の名誉だけでなく、村の名誉、国の名誉までがかかっており
大変な責任を背負って、バリ芸能を持って海外へ出て行ったのだ。
という事情があったのを知り、私は「先輩達は、なんと尋常でない貢献をした人達なのだ!」と感じて恐縮した記憶がある。

さて、この時の会話の内容から、今回のイベントのアイディアが生まれた。

惜しみない献身で弟子を指導し、プリアタン芸能を高いレベルにまで上げ
楽団のみでなく、プリアタン村、バリ、ひいてはインドネシアの名をも有名にして多大な貢献をした師匠達。

その師匠達に教えを受けた舞踊家と演奏家が世代を超えて集まって、感謝と尊敬の念を込めて、プリアタンの古典舞踊と楽曲を舞台で演じることによって、師匠達(=サン・グル)を思い返そうではないか。

それが、「ムングナン・サン・グル~アナック・アグン・グデ・マンデラとグスティ・マデ・センゴッグへの賛辞」の始まりだった。

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著者 : kadek ferry © f-studio
写真提供 : Doc. Mengenang Sang Guru 2007 (Press Conference)
Thanks to Rodney Merrill